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新生のらくろ君Aの館

新生のらくろ君Aの館

造船時代その11


造船所時代の日記(11)です

極限作業ロボット(海洋)の統合部門である、トータルシステムのアニメーション表示装置が搬入された。マスターコンソールの中で、擬似的アームを動かし、これを運転して、このアニメーションを見ながら、海中内走行、と固着の作業をコントロールする。

工技院:極限作業ロボット

巨大プール内を泳ぎ回る極限作業ロボット(得がたい経験)



RX7はパワーステアリングが無く、駐車場での据え切りなども出来ないし、町中を走るには、不経済すぎた。

カーポートもそれに従って、大きくし、床をコンクリートで、張りつめた。
家は段々と改良され、エアコンを1階と2階に取り付けた。
玉野総踊り大会(盆踊り)があったが、研究所の若い人は、冷めていて参加しない。
その昔、造船時代には連を作って参加し、踊りのうまいのを褒められたものだったのだが。

NHKから、極ロボの取材に来た。私はテレビに出るには、あまりに物を知らなさすぎたので、前任者にインタービューに応えてもらった。
30分以上のインタビューは、5分程度に凝縮されて、後日放映された。会社での仕事は、名目上の長であり、実質的にはそれぞれの担当者が、それぞれのやり方で、仕事を進めていった。
私は殆ど、人事管理を行うだけの存在だった。配置転換をして欲しいと思っても、行くところはない。既に造船を追われた身で、母体の造船も景気が良くない。
このままの位置で、我慢するしかない。
私の知らない会社の、私の知らないことをしゃべる人間が入れ替わり立ち替わり訪れた。

この夏、唯一出かけた、新岡山ゴルフカントリーでも、100を切ることは出来なかった。

その週の終わり、二姉の子供の結婚式があるという招待状が舞い込んだ。
私にとっては、甥であるが、決しておじさんとは呼ばせなかった。
何しろ、二姉とは年が離れているので、叔父甥と言っても年齢は近い。早朝5時前、RX7は玉原ニュータウンの自宅を出発、いつも通りブルーハイウエイから山陽自動車道を経て、名神高速道路に入り、8時前には大津SAに着いて給油をし、朝食と休憩をとった。
又2時間ほど走って、名神は、やがて東名に変わり、しばらく走って、上郷SAで休憩・給油した。上郷からは、3時間走りっぱなしで、海老名で昼食の休憩を取った後は一直線で、市ヶ谷のホテルに入った。二姉の連れ合いが、海上自衛隊であったため、市ヶ谷のホテルも格安で泊まることが出来た。

三男の結婚式は、浜松町の郵便貯金会館で行われた。綺麗な可愛いお嫁さんだ。ウエディングドレスがよく似合っていた。私の時もそうだったんだろう、結婚式の花嫁は、美しいと相場が決まっている。
結婚式には、姉妹全員が揃っていた。

翌日は、市ヶ谷のホテルを7時に出て、首都高速から、中央高速を利用して帰ろうと言うことになった。中央高速に入った頃、俄に空が曇り、あっと思うまもなく土砂降りの雨になった。ワイパーを最速で回しても、前が全く見えない。命がけのドライブが、暫く続いたが、その内青空が見えてきた。談合坂SAでは雨はすっかり上がっていた。駒ヶ岳SAで少し休憩を取って、名神の名塩で、再び休み、玉原ニュータウンの我が家に戻ったのは、夕方6時だった。久し振りに1510kmのロングドライブになった。

ロボットは事業化の打ち合わせに入った。又、玉研の技報に載せるべく、若い研究者に執筆を頼んだ。
移動を担当しているMUc君は、その後徳島大学の教員になって出て行ったが、とにかくみんなから嫌われていた。完全なる虐めである。しかしMUc君の方にもそうさせる何かがあった。

玉研長からは彼に単独で、ヒアリングせよとの指示があった。聞いてみると、謂われのない言いがかりを付けられたり、ことごとく反対されたりと口をついて出てくる。
之で、一つの纏まった仕事が出来るのかと私は暗澹たる気持ちになった。
何処の世界でも、何時の時代でも、お互い生理的に合わない者はいる。それを覆い隠し、目をつぶって仕事をしなければならない時だってある。
MUc君も、固着の連中も互いにそれはなかった。

土曜日の設長杯(昔の職場)で又玉野クラブに行った。一体何回此処でプレーしただろうか、一向にコースを理解しないし、よしんば理解しても、ボールが思う様に飛ばない。
グロスは目も当てられないが、大波賞を貰った。
翌日の日曜日、ロボット関係のスタッフの家を家庭訪問した。固着の連中は、一人独身であり、又、一人は岡山に住んでいると言うことで、家庭訪問からは外した。
皆例外なく田舎の大きな家に住んでいた。此処では、私はよそ者だった。

昇格候補で、他のスタッフは全員合格ラインにあったらしいが、MUc君は、すれすれで危ないので、私に推薦文を書く様に依頼された。私は、気に入らぬところは極力無視し、MUc君の優れた点を数点上げ、昇格に値することを書き綴った。
私の時にはこのような気遣いをしてくれる人はいなかったのだ。なんだかむなしかった。

休みには家の周りのことや、ゴルフの打ちっ放しをした。どうしてこんなに下手なんだろう。元々レッスンプロについてのものではなく、全くの素人が、我流でやっていることだから、悪い癖はなかなか直らない。
それでも時々芯で捕らえたドライーバーが、真っ直ぐ飛ぶ時の爽快さは何とも言えない。

選挙のシーズンになった。会社は選挙一色であった。仕事も仕事だが、田舎にある企業としては何としても企業選挙は避けられない。
あれほど、姉の土地の草刈り問題で、急先鋒だった、K.K.が姉の土地を講演会事務所に貸せと言う。全く勝手なものだ。草が生えていると言っては、皆に押されて苦情を言うが、一旦事があると平気で手の平を返す。
K.K.はそんな男だ。人当たりは良いが、結局私を部長にさせなかったプロジェクトチームの下手人の一人である。
私は、K.K.のことを今でも恨んでいる。

庭の植木を移動したり、模様替えに努めた。
打ちっ放しに行き、そのころ親しくなった上手なFuさんに教えて貰ったが、なかなか巧くはならない。
夕方から風邪を引き、ふーふーいった。それでも何とか持ちこたえて、翌日からの仕事に出かけた。
ロボットの水中走行性能の打ち合わせで、昭島研究所を訪れ、問題点を討論した。ロボットは、本体の寸法が、3.2m×2.7m×2.7mの殆ど立方体に近く、ずんぐりむっくりしていたので、安定性に気を遣った。

私は、健康診断を受けると、必ず、引っかかる項目があった。肝機能、痛風、血糖値だ。これらは平均を遙かに上回る。その時は気になるが、直ぐに忘れてしまう。

かねての昇格受験者は、MUc君を含め無事全員昇格した。一段落である。それにしても私は、自分には関係なくなった、昇格の言葉を聞いて、悔しい思いをした。

ロボット展があり、マスターコンソールを1週間ほど貸し出した。
移動システムの打ち合わせで、川崎重工の連中と、東京で会った。彼らは総勢6名のスタッフが来ていた。ロボットに注力する姿勢が我が社とは違うと感じながら、打ち合わせを続けた。

そんな中、元リグを一緒にやっていた、先輩のCSaさんから、仕事についての打診があり、リグの仕事がやりたければ、考えるという内容だった。私は一も二もなく復帰が出来ることを願った。それは、しかし、そう簡単に進むものではなかった。

TNaから電話で、ご母堂が亡くなったと聞いた。肝っ玉母さんの様な人で、終戦時にご主人を亡くされ、女手一つで、兄弟二人を大学、それも京大と関学に入らせた偉大な人の終焉だった。

マスターコンソールが入った。正面に五個のモニターが付き、脇にはロボットを操縦する、腕が出ていた。その日から運転のトレーニングが行われた。操作員には、反射神経の良い若い人が選ばれた。

久し振りに子供達に会った。取り敢えずは元気にやっている様なので、安心した。子供達は、一様に連絡がない、もっと会いたいと言って私を困らせた。私は、もう会うことはしないでおこうと思っていた。会っても何の良いことも出てこない。返って、未練が増すばかりで、お互い不幸だと考えていた。

そんなある日、先輩から、リグのプロジェクトがあるとの話が舞い込んだ。東京での仕事だった。
私は何を思ったのか、東京という点と、極ロボの区切りが悪いとの理由で、断ってしまった。後になって、馬鹿げたことをしたものだと思ったが、プロジェクト故に、極ロボと同じように期限が来れば(プロジェクトが終われば)どうなるかの保証もない。悩んだ末の結論が、それだった。
運命なのだと言い聞かせた。

日曜日に年一回の備前焼祭りがあった。
備前焼は、備前市伊部あたりが中心で毎年、良い焼き物がやすく手にはいる。素朴な中にも奥の深さを秘めた、焼き物は、好みの違いはあるが、私の場合は好きな方だった。備前焼は壊れにくく、そして2級酒を1級酒と同じ味にするほど、水をおいしくさせる力を持っているという。
これは遠赤外線によるものと、何処かの雑誌に書いてあった。備前焼にはおよそ1000年の歴史がある。上薬や釉薬を使わないので、土が命である。それだけに土にはこだわる。
伊部の田の底にあるヒヨセという土に近くの長船町で取れる黒土を混ぜて、1年から3年ほど雨・風にさらし寝かせるという。
人間国宝の藤原啓や藤原雄の作品は高くて買えないが、結構良い掘り出し物があるので、好きな人はしこたま買って帰る。
私も、姉達とこの間結婚した若いカップルに買って送った。

会社は、仕事もさることながら、会社が推薦出馬した、市長選挙で、全社挙げての取り組みになっていた。女の子は、街頭宣伝にかり出されるし、立会演説会への強制的な参加。ビラ配りなど。どちらが本業かは分からなくなるほどだった。
その結果、543票の差で辛うじて、会社擁立の候補者は地元の名士を押さえて、当選した。悪辣なやり方に、反発も大きかった。

病院で何時も引っかかるアイテムについて、再度検査をして、結果を聞くと、何と、基準値内に下がっているではないか。問題のγGPTは38と基準値すれすれであった。
何処でどうなるのか知らないけれど、異常と言われるより、平均値の中に入っている方が気分が良い。
週末の飲み会では早速、一杯飲んだ。

玉野市には、旧国道30号線が走っている。それが手狭というわけではないが、フェリーに乗って、四国に渡る大型トラックが通ると危険なので、バイパスが造られた。トラックの、フェリー待ちもあって、小さな商店街は迷惑していた。聞けば国道30号線は、高松が終点らしく、従って、海の上も国道30号線になると聞いた。
バイパスは、山から海面まで下りる落差が急な所に作られる関係から、わざわざ円形にループして傾斜角を緩くして作ってある。その麓に、ループ橋という打ちっ放し練習場がある。
私は週末にはそこか、児島の打ちっ放しに行くのが、恒例になっていた。

玉研のゴルフコンペ(研友会)にも参加した。瀬戸大橋ゴルフクラブという新しいゴルフ場だった。其処は、フェアウエーが極端に狭く、鞍型のコースになっていたので、少しコースを外すと、直ぐOBになってしまう。コース脇の池には、真新しいボールが幾つも入っている。キャディーは、コースを外すと慣れたもので、ボールを探しに行った帰りには、5つ位余計に拾ってくる。コースからは、瀬戸内海は、ほんの2ホールしか見えない、全く魅力のないコースだった。それでも名前は瀬戸内海・・となっていた。
前に社長が、此処でプレーして、3ホール目で頭に来て、怒って帰ったという話が伝わっていた。
私はそのホールで、又大波賞を取った。練習の成果はなかなか出ない。

会社の運動会があり、私はバスケットボールのドリブルリレーに参加した。
運動会もかつての様な盛況さはなく、私も老いを感じたし、昔懐かしい顔ぶれも段々と減っていた。
私は自分がコウモリの様な気がした、半分は未だ構造設計室に身分がある様な気がして、その席に行くと歓待してくれる。片一方は、玉研だ。こちらの方が馴染みが薄い。仕方ないことだった。

月曜日、本社で、S63年度の研究成果発表会が行われた。本社の部長が発表するので、聴講に行った。社長や専務ら上層部が集まる中に入っての聴講は、息苦しいものだった。又見づらいOHPが有り、説明も小さい声で、聞きづらかったが、しかし全体の研究が分かる良い機会であった。
上層部もどうせ内容は分からないのだから、結論はどうなのだを知りたかったようだ。
JR対策室の課長から、雪害の資料を依頼された。今更何をと思いながら、それでも、大型ファイル4冊になっていた成果品を送った。

中小企業診断士の勉強をしようと、通信教育の資料を申し込んだ迄は良かったが、私の悪い癖で、衝動的にそう言うことを思いつくと直ぐ行動に走る。結局届いた資料は、全く開かずになくなってしまった。
結構なお金をどぶに捨てたことになる。

昔の職場の連中と会社を休んで、ゴルフに出かけた。新岡山カントリークラブは何度か訪れた所だ。
1ラウンドハーフを回って結局50を切れない。下手の横好きとは良く言ったものだ。

久し振りにTIt氏から電話があった。何とか格好を付けている様子を知り、安心してくれた。

研究所で、大先輩が辞めることになり、餞別をした。この人は東大出の俊才でありながら、同じく課長までしかなれなかった人だが、頭は抜群に良く、数学・物理では、おそらく会社内でも右に出る者はいなかったであろう。
企業では頭が良いだけでは、駄目なんだ、会社という所はそんなところなんだと、我が事のように、哀れを感じた。東大出、それは私には考えられない存在であった。

新しくステレオを買い、仕事もそれなりに進み、その年は暮れていった。

元旦が来た。今年の年賀状はなぜか隠れてYYのことを書いた。

児島にある由加山に行く。正式には瑜伽大権現蓮台寺という。神仏混合である。

正月休みにも前の職場の仲間と高松カントリーに出かけた。最下位だった。

早朝自分で屋外の五右衛門風呂に薪を入れて沸かして、沸き上がるまでに近くの山まで走り、帰って、風呂に入りそれから会社に出かけたものだった。

五右衛門風呂にはYYの思い出の写真やレターを泣く泣く焼いてしまった苦い思い出があった。
またあの頃は、仕事上では、燃えていた。今よりもっと元気があった。今はロボットを、自分がまるで操られるロボットのように仕事している。それが実情だった。

五右衛門風呂でゆっくりして、少しゆったりした気分で、田舎の大きな部屋、無駄の多い空間を何故か落ち着いた気持ちで眺めた。

息子は岡大農学部に推薦入学で入ったとの話が伝わってきた。

川重神戸にバリベックプロペラを見学に行った。之は海洋ロボットの推進装置になるもので、ロボットの左右と後部に合計3ヶ取り付けられるようになっている。
バリアブルベクトルプロペラを省略してこう呼ばれるように、方向と推力を自由に変えることが出来るように設計されている。

2月1日付で、昇格者が発表されていた。最早私には、関係ないことになってしまった。

動かなくなっていた固着脚が動くようになって、皆喜んでいた。こうして、極ロボは、徐々にではあるが、進展していき、只私はそれを淡々と見守るだけの無味乾燥な生活が続いた。

極限作業ロボットの見かけの管理者になったのは、やはり前任者が、スタッフの総スカンを食ったからで、その内容は、スタッフが我が儘で、どうにも手が付けられないことが原因であるとのことが、段々と分かってきた。
そんな中で、私は、何処までやれるのか。何処まで飾り物でいられるのかを考え背筋が寒くなった。

要素技術のワーキンググループの打ち合わせで、東京へ出張した。東京タワーの向かいの機械振興会館にロボットの組合は置かれていた。帰りに増上寺におり、そこで、自分の将来のことなどを、祈った。
増上寺は、浄土宗の七大本山の一つで三縁山広度院増上寺(さんえんざんこうどいんぞうじょうじ)が正式の呼称である。開山は酉誉聖聡という人で、江戸時代の初め源誉存応(げんよぞんのう)が徳川家康の帰依(きえ)を受け、大伽藍(がらん)が造営された。以後徳川家の菩提寺として、また関東十八檀林(だんりん)の筆頭として興隆した。さらに、江戸時代総録所として浄土宗の統制機関ともなった。近くの戦災によって徳川家の将軍やその一族の御廟(ごびょう)は焼失したそうだ。焼失をのがれた三門(さんもん)・経蔵(きょうぞう)・御成門(おなりもん)などを含む境内(けいだい)は、昭和49年(1974)完成の大本堂とともに、近代的に整備され現在も少しずつ手を加えられている。

増上寺の近くに将来の転職先があろうとは、その時知る由もなかった。

モッコク、ヒイラギ、ヒバなどを買い少しずつ庭も綺麗になっていった。
GOoさんが退院後電話をくれた。レアメタルの件は仕切り直しだと、お上の言うことを待っていたらどうにもならないという。今窓際にいるが、君は玉野に未練があるのか、是非東京でやれ、出てきたら電話しろと言うことだった。

バスケットボールも、最近は声が掛かるが、何時も断って、不参加になり、遠ざかっていった。

再びロボット実用化ワーキンググループの会議が東京であり、その帰りに大阪の姉の家に押しかけた。翌日は、その時開かれていた花博へ出かけ、遅くまで遊んだ。姉は怖がったが、立ち乗りジェットコースターや観覧車、命の塔など、童心に返って乗った。数個のパビリオンにも入ったが、大阪吹田での万国博の時のような勢いは感じられなかった。
その日も姉の家に泊めて貰い翌日は、京都のバスツアーに出かけた。

南禅寺の金地院は金地院崇伝というお坊さんが、徳川家康を称えるために小堀遠州に依頼して作らせた庭と言われている。権力者を称える庭らしく、その名の通り、左に亀島、右に鶴島を配し、神仙蓬莱のめでたいめでたい庭となっている。『石川や、浜の真砂はつきるとも、世に盗人の種は尽きまじ』と石川五右衛門が、大見得を切った南大門は、威容を誇っていた。

更に青連院は皇族が代々住職を務めた天台宗の寺院で、別名「粟田御所」とも呼ばれた。
寺宝の絵画・不動明王二童子像は国宝で体が青いことから「青不動」といわれている。書院前の池泉回遊式庭園と北にある霧島の庭は、名園として名高い。

更に、YYと汗をかきながら登った、醍醐寺は貞観年間(859~877)理源(りげん)大師聖宝(しょうぼう)により創建。醍醐山全域を寺域とする広大な古刹で、山上は上醍醐、山麓は下醍醐と呼ばれている。上醍醐には如意輪堂(にょいりんどう)〔重文〕・薬師堂〔重文〕・開山堂〔重文〕・清滝宮(せいりょうぐう)〔国宝〕など、下醍醐には総門・三宝院(さんぽういん)・仁王門・金堂〔国宝〕・五重塔〔国宝〕・大講堂・宝聚院(ほうじゅいん)〔霊宝館〕などをはじめとする古建築の貴重な伽藍が多数点在する。中でも、天暦5年(951)に建立された京都最古の建物である五重塔〔国宝〕や、三宝院表書院〔国宝〕前にある秀吉が花見の宴のために自ら設計したという池泉庭園〔名勝〕は贅を尽くしたものである。

白沙村荘は銀閣寺の参道沿いにある。大正5年(1916)に建てた日本画家故橋本関雪の邸宅。1万?の敷地をもつ閑寂な邸宅内には、如意ヶ岳を借景にした池泉回遊式庭園がある。趣の異なる5つの部分にわかれているところなどが興味深い。他には茶席の問魚亭、存古楼(画室)、憩寂庵、国東塔などがある。また庭園奥にあるギャラリーには中国・ギリシャ・インドなどの美術品をはじめ、関雪が使用した筆やスケッチなどが展示されている。

最後に勧修寺を訪れた。昌泰3年(900)醍醐天皇が祈願所として創建。代々法親皇が入寺し、勧修寺門跡として知られる。書院〔重文〕は江戸初期の書院造りの典型。襖絵は土佐光起の作。庭園は氷池と呼ばれる池泉庭園で、中心の“氷室(ひむろ)の池”は京都でも屈指の古池。スイレンの名所としても知られている。他には徳川光圀寄進の“勧修寺型燈籠”や樹齢約750年の名木ハイビャクシンなども有名。ガイドは、慣れた口調で、案内を続けた。

観光バスによる、名所周りは、せわしないし、弁当も余り美味しいものではないが、簡単に京都を知る上では、ある種便利なものであった。

次の日は、再び京都見物に出かけた。今度は私がよく知っている散歩道を通った。
銀閣寺から哲学の小道を通り、永観堂を見て、平安神宮に寄った。暫く時間を潰した後、河原町三条から四条におり、橋のたもとの漬物屋で、京の柴漬けなどを買った。ここでもYY のことが思い出され、必死に消し去ろうと努力している自分があった。
新大阪で、食事をし、土産を買って、姉の家に戻った。

翌日は、三宮に出て、ジパング通りを歩いた。路上に出された店にふと足を止め、色紙と、額を買った。三宮は、簡単に済ませて、そのまま岡山まで、ローカル線でコトコト帰った。
宇野駅からは、バスで帰宅。何時も車で回っていると、電車やバスでの動きは、全てのことがスローモーに思えて、又それも良いものかと一人感じた。

来年、年が明けたら3月末で、色々物議があったMUc君が、徳島大学講師に転出するという。やれやれだ。

会計監査院の監査があり、対応したり、特殊機器部の連中とのやり取りがあり、彼らの若手がロボット操縦すると言うことで、マスターコンソールを玉原から下の特殊機器部に降ろした。
又固着脚の油圧制御部分に水が入り、大騒ぎの末にやっと水抜きが出来、帰宅したのは夜遅かった。

週末はキリンビール工場でのビール祭りがあり、無料を良いことに生ビール3杯を飲み、いい気分になった。同期入社の家族も楽しそうに工場内を歩いていた。

その足で、東京へ出張、実用化ワーキンググループの理事会と連絡委員会に出た。
ロボットは、小型水槽での、固着脚の性能テストが行われた。
次の日、推進調整会議が行われ、特殊機器部の連中との摺り合わせを行いその流れで、懇親会を行った。

更に1日おいてロボット海洋部会が伊豆で行われることになり、私が出張した。朝7時に宇野を出て、熱海から伊東に入りそこからバスで、初島台にある研修所での会議だった。
さて出張したものの、専門家の集まりだし、会議の内容は、半分も分からない。懇親会に出ても、語りかける共通の話題は表層的になってしまう。少しも楽しくはなかった。
翌朝雨が降った、ゴルフ組(実は之が楽しみだったようだが)は、少しがっかりしていたが、雨の中出て行った。私のゴルフは、何回も書いたように、ゴルフでない、棒振りである。8時前にはそそくさと帰途についた。新幹線で浜松を過ぎる頃にはようやく晴れ間が見え始めた。

スタッフ連中は、それぞれのペースで、調整を行っていた。私はそれを月報に纏めて、フロッピーで、管理部門に渡す仕事をする。
統括のマスターコンソールに入れ込むコンピューターが納入された。早速機能テストが行われた。
固着脚の調整で、メーカーに行ったスタッフは、午前1時頃まで掛かって調整を行ったとの報告があった。

そもそも通産省工業技術院委託の極限作業ロボット技術研究組合員は20社を数え、これら参加会社が、海底石油生産支援ロボット(海洋ロボット)、実用原子力発電施設作業ロボット(原子力ロボット)、石油生産施設防災ロボット(防災ロボット)の3つのロボットを、試作し、将来の実用化に備えるものであった。これらプロジェクトは既に1983年に基盤技術から始められ、1990年(今年)総合評価を受ける、実証実験を受ける大枠が決まっている。このうち防災ロボットは概念設計までと計画の変更が為されていた。
原子力ロボットは、重さ700kgほどで、4足歩行の馬型をしたロボットで、人間が作業出来ない放射線の中で、機器・装置の点検・補修作業を運転員・作業員に替わって行い、安全性・信頼性の確保の一端をになう目的で製作される。
其処には技術の粋が集められ、触覚センサー、マニュピュレーター、腕と脚用のアクチュエター等多くの要素技術が結集された。ロボットがスパナを使ってのナット締め、指によるナット回し、ドアを開ける作業、障害の跨ぎ越えなど多くの難題があった。

我々が担当した海洋ロボットでは、海上支援船から降ろした中継基地を発進した、ロボットが、目的の石油プラットフォームにたどり着き、その格点部の溶接の検査補修をするものである。走行には、前に述べた、バリベックップロペラを使い、自分の位置同定は、海底に置かれた、トランスポンダからの信号を頼りにして走行する。固着脚は、表面にフジツボなど、不純物がついていても吸引可能なように先端にスポンジ状のものとゴム製の吸盤を有している。
固着の足はロボット下部に2本、作業用の腕(マニュピュレーター)は上部に二本、目に替わる立体視TVを備えていた。

防災ロボットは、2本の腕を持ち6脚6輪ハイブリッド移動機構を持つ、火災現場での炎の中消火活動に当たるロボットとして、概念設計が行われた。炎の環境下でもその先のものを見分ける、高速スキャナの画像処理技術が取り入れられた。

固着のグループでは、私も含めて試験動作が巧く行ったのを契機に、一時的な祝賀会に出かけた。そのまま、2次会へ行き午前様になってしまった。

ポスト極ロボの話がそろそろ出始めた。

夏のボ-ナスの査定で、MUc君は、D評価だと文句を言ってきた。通常の評価はA、B、C1、C2、C3,D,Eの7段階になっている。余程のことがない限りA.Eは付かない。昇格直前はBかC1。昇格後はC3が相場だ。所詮公平を期すと行っても、判断基準が明確でない。
MUc君は昇格直後であり、又本人は知らないが、昇格を危ぶまれ、私が特別に推薦文を書いたこともあり、評価が替わったのかと、一瞬身構えた。内容を聞き計算してみると、C3の間違いであることが判明した。
昇格直後と言うことで、説明をしたが、自分はもっと出来ると反論してきて、説得に時間が掛かった。
自信過剰もいい所であるし、私が推薦文を書いて昇格したことなど知らない。そんな所が、皆から嫌われる元凶かと想像した。

TItさんから電話があった、定期的に様子をうかがってくれる。私は、会社での仕事の面白くないことや、スタッフのちぐはぐさ、家庭でのしっくり来ない様子などを打ち明けた。

ポスト極ロボの話が行われはじめた。

日曜日に父の17回忌の法事を執り行うことになった。と言っても四姉以外は来なかった。

土曜日は一日掛けて部屋を掃除し、姉を宇野駅に向かえ瀬戸大橋を渡るドライブをして、パーキングエリアで食事をして帰った。姉は、私が好きなシーバスリーガルを土産に持ってきた。

日曜日10時からの法事は寂しいものだった。坊主の説教を1時間ほど聞き、終わってそれぞれ姉を岡山駅まで送って帰った。

ロボットは相変わらず淡々と過ぎていく。会議、会議の連続である。見学者は引きも切らない。又、各種講演会が引きも切らず。本気で勉強するのなら、実に良い環境だと思った。船を造っている間はそうはいかなかった。日常の雑務に追われて、講演会をゆっくり聞く暇など無かったからだ。

金曜日の午前中NEDOによる実地検査があり、調査役と主査の二人が来所した。検査は案に相違して簡単であった。午前中に検査を終わって、検査官共々、瀬戸大橋を渡り、与島に見学に連れて行った。与島で観光船に乗った検査官は、至極ご満悦で、帰っていった。

休みは、児島での買い物と、打ちっ放し、いつものパターンだ。

ポスト極ロボでは、草刈りロボットやナース支援ロボットなどの話がでたが、結局線香花火で終わる。極ロボは、大型プロジェクト組合員の会社には、ロボットの専門会社もある。小人数で、やっている、限られた中から新しいシーズが出てくるわけはない。私は冷めてみていた。

海洋ロボットを、大型水槽に移す必要が出てくる。このため、深田サルベージや五洋建設の担当者と打ち合わせをした。深田サルベージは、私が、リグをやっている時代に、コラムや、上部構造を吊り上げるのによく摺り合わせを行った会社だ。また、私をこんな立場に追いやった、吉田号を保有する会社でもある。感慨が深かった。

移動グループのMUc君は、完全に私を軽視し、物事の切実感が欠如している。
本社の部長もそれを知り、ロボット組合の理事に相談、盆休み明けに何らかの手を打つことになった。

ポスト極ロボについてのフリートーキングが行われたが、大した成果もなく、先行きの不安が増すだけだった。

瀬戸大橋カントリークラブに、極ロボ関係のスタッフと出かけ1ラウンド半を回ったが、最後に足が痙る惨めな思いをした。

夏休みは、ゴルフ以外は、牛窓のホテルリマー二を訪れ食事をして、竹久夢二の生家を見た。
岡山ブルーライン邑久ICから車で約3分のところにあるこの生家は、瓦葺きの上にわらぶきの屋根を被せた庄屋風の建物だった。

竹久夢二は大正ロマンを代表する、漂泊と叙情の画家詩人であり、彼の描く作風はどことなく頼りなげで、しかも凛としている柔らかい感動を人に与えてくれる。美しい山河に囲まれた生家で夢二は生まれ、16歳まで過ごしたという。茅葺きの家は生前のままに保存されていた。素描、版画などの作品が展示され、入口には有島生馬の筆による「竹久夢二ここに生る」の碑がある。
帰りに児島干拓地の中にある、横樋地蔵に参った。

休み明け、実用化ワーキンググループが東京で行われた。私は出張するものの、仕事は私のところを素通りして過ぎてゆく。やるせない気持ちがつのった。常に蚊帳の外で、実務はこなされていく、正に傀儡とはこの事かと思い知らされた。帰りの新幹線でパーカーのボールペンを落としたことに気づいたことが、私にはより一層ショックだった。

この間、父の法事の時に言っていた、二姉の胆石の手術日が決まったという。手術の承諾書に肉親のサインがいるという。承諾書が私の下に送られてきた、書類に目を通すでもなく、機械的にサインと判子を押した。
私は自分が胆石で入院切開手術をした時のことを思い出した。
初めは、十二指腸潰瘍だと、会社所属の病院で診断され、それに基づいて、手術され掛けた。どうも様子がおかしいので、倉敷の総合病院に出かけてCTスキャンを掛けて貰った所、何と、ウズラの卵大の石が詰まっているとのことだった。
それ以来医者は信用がならないと言うことが身に付いた。姉の手術は、1ヶ月後だという。胆石は、盲腸に継いで、簡単な手術と聞いていたので、さしたる心配もしていなかった。
とはいうものの、自分の体にメスを入れる時は、その時が最初だったこともあり、腹をまっぷたつに切ると言われ、おびえて、どうしようもなく不安であった。

造船時代その12に続きます。






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